~パラリンピック中止は叫ばない?!~
オリンピックが無事終了し、8月24日からパラリンピックが始まる。
オリンピック開催前、マスコミや野党そして活動家たちはコロナ禍でのオリンピック開催が”コロナ感染を広める”と何ら根拠のない主張で中止を訴え続けたのだが、思ったとおりオリンピックによる感染拡大はなく、杞憂に終わった。
それでも反対派は”オリンピックやってるから国民は自粛を控えコロナが拡大した”などと訳の分からない論法でオリンピック開催を批判し続けている。
それならパラリンピックの中止はなぜ叫ばないのだろうと思う。
一部活動家たちはやっているのかもしれないが、あれだけオリンピック中止を訴えていたサンデーモーニングやモーニングショーはどうしたのだろう?
パラリンピックの中止を叫ぶテレビも無ければ野党議員もいない。
日本では社会的弱者を批判すれば即、”悪人扱い”される。
そのため、”パラリンピック中止”を訴えれば即、”差別だ!”と言われることは目に見えている。
これを恐れてパラリンピック開催に反対する人はいないのだろう。
障害者がスポーツをやること、スポーツによって生きがいを見出すことそれ自体はとても良いことだと思う。
しかし、障害者の中にはスポーツができないほどの障害を抱えている人もいるということも忘れてはならないだろう。
~競技によっては不公平!~
パラリンピックを見ていて思うのは、”競技によっては不公平感を感じる”ということだ。
同じ種目に出ている人でも障害の程度は人それぞれ違うため、同じ条件で競技することは難しいと思う。
例えば、ゴールボールのように、視覚障害者全員が目隠しをして全盲状態で行う競技は公平だろう。
しかし、視覚障害者といえども全く見えない人や少しは見える人もいるし、上肢や下肢が欠損している人は欠損の位置によって条件が異なる。
特に義足や車いすを使う競技は不公平感満載だ。
走り幅跳びや走高跳の選手は義足を付けている。
選手たちは自分の足で踏み切るならばある程度の公平感を感じるだろうが、ほぼ全員が義足で踏み切るのだ。
選手の力よりも”義足の力”で飛んでいる感じがする。
選手全員が同じ義足を付けるのであれば公平だろうが、そうではないらしい。
義足の大きさや形状には細かな規制があるそうですが、使用素材や反発係数の上限はないというのです。
2014年、ドイツ陸上選手権で、健常者と共に出場した25歳の義足の身体障害者が優勝したというニュースがあった。
道具を使う競技は不公平が付きものとはいうけれども、義足は不公平感が大きすぎる。
少なくとも義足での踏み切りは禁止にすべきだと思う。
車いすを使う競技も同じだろう。
義足は数十万から300万円。車いすもマラソン用は200万円もするという。
障害者でもお金が無ければパラリンピックには出場できないのではないだろうか。
~韓国が世界をダマした!~
そして柔道競技。
柔道競技は視覚障害者の競技である。
体重別で別れてはいるものの視覚障害の程度はまちまちだろう。
目の見え方によって有利不利は明らかである。
そして「本当に目が悪いの?」って、もう疑うしかなくなった。
視力検査の時に、”見えません”と連呼すれば誰でも出場できるんじゃないの?
と思わせる”韓国が世界をダマした”というニュース。知らない人のために。
韓国の検察は、視覚に障害があると偽って健常者をリオデジャネイロパラリンピックなどに出場させ、政府の報しょう金を不正に受け取ったとして、韓国柔道代表の元監督を起訴するとともに、メダリストを含む選手13人を在宅起訴したと、地元メディアが伝えました。
韓国の主要紙、朝鮮日報などによりますと、ソウル南部地方検察庁は、視覚に障害があると偽って健常者を2016年のリオデジャネイロパラリンピックなどに出場させ、政府の褒しょう金を不正に受け取ったとして、1日付で韓国柔道代表の元監督を補助金管理法違反などの罪で起訴するとともに、選手13人を在宅起訴しました。
目が見えているくせに視覚障害者を装ってリオ五輪に出場させていたというのだ。
やはり柔道も”目隠し”が必要だろう。
~オリンピックとセット?!~
パラリンピックはオリンピックとセットでやる必要があるのだろうか?
パラリンピックは、1948年、ロンドン郊外の病院内で開催されたアーチェリーの競技会が起源で、1988年のソウルオリンピックの時からオリンピック直後に同じ場所で開かれるようになったそうです。
オリンピックの会場をそのまま使えるという利便性はあるにせよ、オリンピックで盛り上がった後にパラリンピックをやっても興奮や喜びはオリンピックを超えられるものではないと思うし、注目度も低下するだろう。
ならば、オリンピックと切り離してやった方が注目を集めるだろうし、そうでなければオリンピックの前にやった方がイイだろう。
オリンピックの聖火は、オリンピック発祥の地ギリシャのアテネで採火され、リレーによって開催地まで運ばれる。
しかしパラリンピックの聖火は各地で火を起こして採火されるのである。
この時点でオリンピックとパラリンピックは”別物だよ”と差別しているともいえる。
このような点からもオリンピックと併せて開催することにはやはり賛成できない。
こんなことを書くと、”差別的だ!”という人がいるだろう。
差別というならオリンピックと分けることの方が差別ではないかと思う。